三日町商店街は、約370年前の藩政時代から青森県南部地方の商業の中心地として栄えてきました。
大正14年、当時の有志たちにより商店街組織化の先鞭をつけ、任意組織「三日町銀座三栄会」を結成しました。
発足の契機は、中心街を一なめにした大正13年の八戸大火で、その復興に際し、機運が盛り上がり、翌14年三日町の全店が加盟して結成を見ました。
このころには早くも夜店が開かれて夏の夜の名物となり、三日町夜店は6~8月の毎月3~5日に趣向を凝らし行われました。
昭和7年八戸で初めての歩行者天国も行われ、パチンコ店がお目見えしたのもこのころ。
昭和8年10周年事業として街路樹を植え、町内の舗装工事を施工、また飾り付けコンクールを行うなど、地域の消費者に積極的にアピールし、いわゆる戦前の古き良き時代の買物公園として広く親しまれました。
終戦後は八戸にもいち早く米軍が進駐し、市の経済も基地を中心に展開していました。
このころダンスホールやキャバレーが出来、三日町は一時期ではありましたが、歓楽街の模様を呈しました。
地元出身の芥川賞受賞作家・三浦哲郎の小説「十五才の周囲」はこのころの三日町の模様を描いたものです。
戦後になって、昭和29年、協同組合三日町銀座三栄会として法人化し、三日町全体を横のデパート化するため、アーケードを完成させました。
これによって街の回遊性が増しました。
今ではすっかり夏の風物詩として定着した八戸七夕祭りが開催されたのもちょうどこのころでした。
昭和43年に、三日町に丸光(現さくら野)、緑屋(現レック)の両デパートが同日オープンし、
歩行者、自動車の通行量が飛躍的に増加。
青森県南部や岩手県北の周辺市町村を含めた66万人広域商圏が形成され、三日町も中心商店街の一翼を担いました。
昭和59年商店街振興組合三日町三栄会に改組。
新しい時代にふさわしい商店街づくりを進めるため、平成2年には三日町商店街のシンボルであったアーケードを撤去。
その後各店のセットバック(店舗の壁面後退)、電線の地中化事業、歩道のモール化を同時期に進め、7年には完成。
八戸らしさを全面に打ち出した新しい街並みに脱皮しました。
現在はソフト事業にウェイトを移し、市日の町(注)にこだわった情報誌「三日町・月の市」を毎月発行し、情報発信機能を強化するとともに、東北新幹線八戸駅開業と共に、より広域エリアからいらっしゃるお客様に満足頂ける街づくり、店づくりを進めております。
このように三日町商店街は、その時代にあわせた商店街づくりを組合員の結束の下、推し進めて参りましたが、今後も新しいファッションやイベント等、わくわくする発見や感動を皆様にお届けするためにがんばって参りたいと考えております。
現在に至る
(注釈)
八戸の中心街には朔日町、三日町、六日町、八日町、十一日町、十三日町、十六日町、十八日町、廿三日町、 廿六日町と昔の市日の町名がそのまま残っています。